自分の断片を放り込む
まぁあっという間の2年間だった。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」を素直に体現するような、喉元を過ぎてしまった辛いことはすべて忘れ、漠然とした達成感、開放感に包まれている。昔の自分だったら、ここ2年くらいのことは自分でもしんどくなるくらいに詳細に記憶が残っているはずなのに。
一本線の記憶であれば覚えてもいるだろうが、この大学院生活はバラバラだった。さまざまな場所に自分を放り込み、自分を断片化させながら、一つでも多くの、まだ見たことのないものを見ようとしていた気がする。
会社員を3年間やっていた時、「この生き方で続けていくのはしんどい、会社員の優等生を目指すなんてしんどすぎる」と、青いことを考えていた。ある日、丸の内で働くサラリーマン達と、丸の内のサラリーマンで賑わうドイツ料理屋で飲み会をした。「会社員のつらさは、終わりのないことを続けること」と、会社員20年目のオジサンが言っていた。
そのオジサンは、丸の内の一等地に出社するピカピカのエリートサラリーマンである。ピカピカの家族と、ピカピカの家と、ピカピカの同僚を手に入れても、その苦しみだけは抜けないのか?いや、ちょっと恵まれていることを忘れているのではとも思う。
でもそんな「辛さ」を一つの勲章のようにして、給料をフィードされ続ける現状を自覚しながら、それでもなお会社に居座るのは、それだけではない楽しい部分もあるからだ。そして自分を取り巻く状況に、彼なりの「折り合い」をつけているからだろう。
折り合い
Xで「折り合い」と検索すると、さまざまな「折り合い」の形があることに気づく。
「折り合い」とは、うまくいかない、性質の異なる二者が共存できる形をどうにか探るようなことだろう。それは自分と社会であったり、自分の中にある2つの異なる感情だったり、自分ではない外部の要素と要素の話であったりする。「折り合いをつける」「折り合いが悪い」「折り合いがつかない」など。
折り合いはどのようにしてつけるのか?
自分と他者の折り合いをつけるとき、相手の譲歩も多少あるのかもしれない。一方で自分の中で折り合いをつけるとき、その折り合いレベル、つまり「挑戦」を2割で「保守」を8割にするのか、それとも「保守」を2割で「挑戦」を8割にするのか、「会社員」で行くのか「学生(無職)」で行くのか、その塩梅を決めるのは自分自身である。もしかすると、両者、という二者間の問題だけでなく、この折り合いジャッジに影響してくる要素は他にもあるのかもしれない。
折り合いをつけると、それまで複数に広がっていた選択肢が一本の線になり、この一本線を信じれば良いのだ、と安心する。もう折り合いはついているから。折り合いがつかない状態は、不安定でしんどい。
一度折り合いをつけると、自分を折り合いの中に沈め、折り合いの窓から世界を見ることになる。その折り合いから抜け出すことは難しい。
折り合いをつけないこと
会社員時代の私は、折り合いをつけて自分を一本化している現状に不満だった。しかもその折り合いは誰かに強制された訳でもなく、自分でつけているのだから、誰も責めることができない。
もう折り合いは一旦忘れよう。そうして大学院に入ることになった。
私が根っからの研究熱心者で人生冒険家であれば、そもそも「折り合い」などということをウジウジ考えたりしないだろう。私は研究熱心者で人生冒険家でありたい一方で、自分の中にある、効率的に業務を捌く会社員的な素質を無視することができない。
ある意味、会社員を辞めて大学院に入ろう!と折り合いをつけて入学しても、会社員的な自分も存在し続けていて、全然折り合いなどついていない。全然触れてこなかった領域にも初心者マークをつけて飛び込み、まだまだ全然折り合いをつける気がない。
折り合いというのは、人それぞれの一つの答えなんだろう。その答えを出すタイミングが早い人もいれば、遅い人もいて、一生折り合いをつける気がなく死んでいく人もいるのだろう。
折り合いがついている人に囲まれていると、自分はまだ答えも見つけられない子どもだと感じるかもしれない。
でも、そもそもその答えでいいのかな?
まだ答えに出会ってないのに、折り合いをつけているのでは?
一緒に折り合いから抜け出そう、オジサン、










